銭屋五兵衛の銅像が建っているところから通称銭五公園といいます。以前はこのあたりはすべて松林でしたが、戦後松の木やアカシヤの木が切られて住宅が建てられ広場が造られました。かつてこの地は五兵衛の句碑が建てられており、五兵衛の俳号からとって亀巣台と呼ばれていました。銅像は航海服に身を包み、懐にはそろばんを入れ、後ろ手に望遠鏡を持っています。銅像は昭和8年11月16日に建立されました。制作者は都賀田勇馬氏です。当時建立についていろいろの意見がありました。明治以後、海外貿易の先駆者、豪商として五兵衛の名が高まり、銅像建立の計画が何度もありましたが実現しませんでした。しかしその後政治家の永井柳太郎、中橋徳五郎、林屋亀次郎の各氏、当時の金石町の町長であった観田次郎吉氏の尽力により建立の運びとなり、この姿に決まりました。顔のモデルは黒本稼堂氏です。黒本稼堂氏は銭五の一族として金石に生まれた漢学者であり五兵衛に一番似ているとのことでモデルとなったわけです。銅像の台座の部分は御影石で組み立てられており、中はクリ石がつまっています。前面の銅版の銭屋五兵衛翁銅像の文字は前田利為氏の手によって書かれました。ちなみにこの銅像の建設資金は総額で1万1千6百円、昭和8年の頃としては大金でありました。右横の碑文は尾山神社の宮司で銭五研究の第一人者・鏑木勢岐氏の作であり、公園内の石碑の一つは五兵衛79歳の時の俳句で「降る雨をふもとに見るやゆうもみじ」と刻んであるのでもみじ塚の名があり、また前の方の石碑は五兵衛の孫娘・千賀女の句「見る先に滝の音あるしげりかな」と刻んである句碑です。また、この松林を造り、2万本のクロマツを植林して砂防林を造成した金石の唐三郎氏の石碑も造られています。この銭五の銅像は精悍で面長の顔立ちではるか海をにらんで立ち、その海に賭けた夢が今も生きています。その他、公園内には大智禅師の碑があります。印跡の地を記念して有志が昭和11(1936)年に大智禅師の碑を建てました。大智禅師は九州・肥後の出身で、中国・元での修行を終えて日本に帰る際に高麗近海で海難に遭い、高麗王に船を手配してもらって加賀宮腰(現・金石)に帰着したとされています。また公園入口近くには、明治7年(1874)に熱海で没した前田慶寧公を敬慕して、在世中に温情をかけられた船手足軽によって、かつて金石御船町の一角に建立された前田慶寧公慰霊碑があります。
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基本情報
- 住所
- 石川県金沢市金石
- その他リンク先
- 石川県銭屋五兵衛記念館
- デジタルマップへのリンク
- https://platinumaps.jp/d/kanazawa-city?s=15386