加賀藩に仕えたキリシタン大名 高山右近ゆかりの地をめぐる in 金沢
高山右近は、1588年から1614年までの約26年間を加賀藩内で過ごし、その生涯と業績は金沢をはじめとする地域に深く刻まれています。金沢市内には、右近の足跡を感じることのできるスポットが多く点在しており、近江町市場、金沢城、金沢21世紀美術館、兼六園などの観光名所を巡りながら、右近が過ごした時代や彼の業績を学ぶことができます。右近が加賀藩に仕官後、金沢の発展に大きな貢献をし、金沢城の修築や茶道文化の発展に深く関与していました。これらのスポットでは、彼の足跡を辿ることで、歴史的背景を実感することができるでしょう。
金沢駅(鼓門・もてなしドーム)
“おもてなし”の心から生まれた金沢の新名所
金沢駅の兼六園口にあるもてなしドーム。金沢は雨や雪が多いため『駅を降りた人に傘を差し出すおもてなしの心』をコンセプトに誕生。金沢を訪れた人を幾何学模様のガラスの天井がやさしく迎えてくれます。フォトスポットとして人気なのが荘厳な印象の鼓門(つづみもん)。金沢の伝統芸能である能楽で使われる鼓をイメージしています。高さが13.7mあり2本の太い柱に支えられた門構えは圧巻です。金沢を訪れた多くの観光客がまずここで記念写真を撮影しています。金沢駅は世界で最も美しい駅14駅の1つに選出されています。
日没から0:00までは、鼓門ライトアップを行っています。
ライトアップ時間中は、正時(毎時00分)ごとに2分間加賀五彩(えんじ、藍、草、黄土、古代紫)をイメージした光で曜日ごとに異なる色でライトアップされます。(月:えんじ、火:藍、水:草、木:黄土、金:古代紫)土・日・祝日は5色それぞれで2分間ずつ彩られますので、夜の金沢観光の際にぜひお立ち寄りください!
「武蔵ヶ辻・近江町市場」にて下車して徒歩3分
高山右近記念資料館(ギャラリー・ジュスト)
2024年11月、金沢の中心地に新たに「高山右近記念資料館(ギャラリー・ジュスト)」がオープンしました。この資料館は、高山右近が造築を指揮したとされる西内惣構の跡地に位置し、現在の近江町市場近くにあります。 右近の生涯や右近が手掛けた金沢城の修築のほか、茶道具や加賀地方のキリシタンに関する貴重な資料を展示しています。
- 住所
- 石川県金沢市西町藪ノ内通32-2
- 電話番号
- 080-6355-5886
- 営業時間
- 月~土:10:00~12:00(予約制)※ご来館の4日前までに事前予約、13:00~16:30(フリー)、日:13:00~16:30(フリー)
伴天連(ばてれん)屋敷跡
金沢城西側と城下をつなぐ甚右衛門(じんえもん)坂下の周辺(尾崎神社横)には伴天連屋敷(宣教師、キリシタンの屋敷)があったと伝わっています(『金沢古蹟史』)。内藤如安、浮田(宇喜多)休閑(久閑)など、右近を頼って金沢にきたキリシタン武将らが集まっていたと推測されます。
カトリック金沢教会
高山右近像や高山右近、細川ガラシャなどを描いたステンドグラス、右近の聖遺物、右近所用と伝わる香炉、マリア観音像、聖母子像などを見ることができます。協会入り口手前には「南坊石」と呼ばれる戸室石(金沢城などに使われている金沢近郊の戸室山周辺からとれる石)が置かれています。これは、高山右近邸にあった庭石だったとされています。「南坊」とは、右近の茶人としての号。
宮内橋詰(くないばしづめ)遺構
「金沢城惣構(そうがまえ)跡」は、金沢城下町を二重に囲む堀と土居で、1599年頃に築造されました。内と外の両方を右近の手によるものとする記録がある一方、内側の惣構を右近、外側を加賀藩重臣の篠原氏によるものとする後世の記録もあります。
金沢市内には、惣構が一部遺構として残っており、その一つ「宮内橋詰(くないばしづめ)遺構」は金沢21世紀美術館の横で見ることができます。ケヤキの巨木が土塁の盛土と共に残っています。隣接地の金沢21世紀美術館脇へ塀が延びており、堀の雰囲気が長い区間でイメージできる唯一の場所です。
中村記念美術館
茶道具と工芸の美術館
茶道美術の名品をはじめ江戸時代の絵画、古九谷、加賀蒔絵、加賀象嵌など、約1000点を所蔵する金沢の茶道文化と伝統工芸を紹介する美術館です。美術館の庭園の眺めを望むことができる喫茶室では、抹茶と和菓子をリーズナブルな料金で楽しむことが出来ます。
- 住所
- 金沢市本多町3-2-29
- 電話番号
- 076-221-0751
- 営業時間
- 9:30~17:00(入館は16:30まで)
- 定休日
- 毎週月曜日(祝日の場合、翌平日)、年末年始、展示替期間
高山右近の屋敷跡
右近の屋敷地は、その後本多家上屋敷となる土地であったことが、大乗寺の由緒書にみえます。加賀藩の筆頭家老であった本多家の上屋敷は、現在の石川県立美術館周辺~金沢21世紀美術館敷地あたりの広大な敷地を誇っていました。
切支丹寺跡・南蛮寺跡
キリスト教会のことで別名「南蛮寺」とも言われます。江戸時代の絵図に「切支丹屋敷」との記載がみられ、元は切支丹寺があったことが分かります。現在の兼六園横の紺屋坂に隣接しています。2代藩主利長の妹・豪姫は豊臣秀吉の幼女として愛され、宇喜多秀家に嫁ぎましたが、関ケ原の戦いで宇喜多秀家が八丈島に流された後、1607年頃兄の住む金沢に移り住みました。金沢に移る前に洗礼を受け、キリシタンになっています。兄の利長は豪姫始めとするキリシタンのために、この地に切支丹寺(南蛮寺)を造らせました。
金沢城跡
金沢城は、本願寺による金沢御堂を起源とし、佐久間盛政によって築城、前田家が本格的に整備した平山城です。新丸や大手門の整備が右近の設計によるものとされています。また、金沢城の建築物のデザインと京都南蛮寺図が類似していることから、右近との関連が指摘されています。